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フランク・ボーン氏からの5つの質問 |
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2010年ジョージ・ローソン・ギャラリーでの私の個展の際、地元の旧友である画家のフランク・ボーン氏から私の絵画制作に関しての5つの質問をいただきました。
その時の私の返答をここに掲載することにしました。
Q-1
ひとつの作品を創る前に、長い間熟考されるそうですが、あなたの作品には内側から流れ出すような自然さが見られます。長く考えることによってあなたは何を得ているのでしょう。また故意に作品の中にその熟考が現れないようにしているように私には見えますが、そうだとするとそれはなぜなのですか。
私は基本的に絵画の中でやろうとしているのは、「絵画って何だろう」ということを考えることです。
絵画は人間が創り出したとても興味深い表現物です。 なぜこのようなものが我々の前に存在しているのか、なぜこのようなものを人間は発明したのだろうか、そのようなことに素直な驚きと興味があります。
私はそうした絵画自身の問題を考えることで、結果としてその背後に存在する人間についての問題をおのずと考えているという制作構造になっているようです。
どのような絵画の在り方が絵画自身にとって充実していて一番好ましく幸せと感じることになるのだろうか、具体的にはこのようなことを想像し模索しながら、私は絵画を制作しているような気がします。
私は制作するときはいつも、私と私の絵画との間での最良の親密な関係に気を配っています。
私は作者側が絵画のすべての判断の全権を握っているとは考えていませんから、私にとって私の絵画は私自身と対峙する他者として存在してくれていることになっていて、それは言い換えれば私と対話する相手として現前しています。
ですから私の制作過程では当然のように絵画の方から私の考えに同意をしてくれるときもあれば、厳しく反発をしてくるときもでてきます。
そうした作業を重ねながら、それはまるで私が大事に感じている最愛の人を想うように、私の制作中の絵画を、絵画として一番幸せな状態にできるよう私は必死でその在処を探しているというのが具体的な私の絵画制作になるのでしょうか。
私が制作中の絵画を前にして長い熟考があるというのは、そうした対話を続けている状態の時のことを指しているのだと思います。
そしてそうした絵画が最上の幸せな状態を見つけたと私が判断できた時点、そのときが作品完成の瞬間になるのだと今の私は考えることにしています。
これは私の絵画が幸せになったのなら同時に私も幸せになるという単純な図式にほかなりません。
ですから、制作中の絵画の幸せを真から考えてみようとするのであれば私は作家側の傲慢さや無理なことを一方的に絵画の方に押しつけてしまうことは避けなければならないと思っています。
こ うした考え方からは、ことさら熟考していることを感じさせないことも含めて、絵画としての「無理のない自然な在り方」を見る人に感じてもらうことはとても理にかなっていて大事なことだと考えています。
ただしその自然さというものはその絵画構造の中から直接出てくるような表現でなくてはなりません。
それはたぶん絵画が持つべき必然的な強さと直接結びつこうとする切実な方法論だろうからです。
Q-2
あなたの作品を作り上げる中で、直感と熟考とはどういう関係を持っていますか。
上記の中にもありますが私の場合の熟考とは何かを探し求めている時間帯のことを指します。
全体がなかなか見えず、すべてのものごとがひとつに結びつかないもどかしいときのことをいいます。
多くの場合このような時間帯には強い忍耐力を必要としてきました。
こうした中で 、すべてのことがらが瞬時に感取できて飛翔感のある感覚が突然の雷のようにやって来ることがまれにあったりします。
その時はなぜかすべてのものが見事に結びついて一瞬のうちに精緻に組み上がってしまっています。
こういうときに限って、瞬間的にすべてが見渡せたような俯瞰的な視点を自分の中に発見して、私は直感という感覚を具体的に実感するということになります。
私の場合、長い熟考の中からそういった数少ない直感が誘発されて出てくることが多いような気がしています。
Q-3
あなたの作品の表現には直線や角などの鋭角的なものが比較的少なく曲線的なものの方が多いようですが、どうしてでしょう。
私は絵画の中での自然らしさということを大切にしています。
私の絵画の基本はブラシストロークから始まりますから、そのブラシストロークにとってあまり無理のない形態は自ずと曲線になることが多いようです。
身体的にも作者の腕の回転から生み出される曲線のブラシストロークは最も自然な感覚があります。
さらに私が画面に曲線のラインを多用するもうひとつの理由は、見る人の視線をラインの道筋で誘導して無理なく移動させたいと考えているからです。
絵画領域の意識を画面の外にまで広げたいと考えるなら、画面からはみ出していくラインを描くことによって、ライン上の視線の移動でそのことを無理なく潜在的に意識させたいのです。
それに比べて直線ラインはこれらの効果を上げるには、曲線に比べて図形としての意志が強すぎて見る人に少し強要する雰囲気が出すぎるように思います。
例えば直線や多角形などは見るからに人為造形的で、画面の中で意図的に規定する効果がすこし強すぎる感じがするのです。
私はもっと画面の中で自然発生的にわき上がってくるような、有機的な流れを大切にしたいと思っていますから、どうしても曲線的なライン表現が相対的に多くなってしまっています。
Q-4
あなたの新しい作品について、透明なビニールの支持体に絵の具が載っていることは、そのまま思考の働きの現れであると書かれていますが、最初はどのようにして透明なバックグラウンドに描くことを決められましたか。
透明キャンバスの作品は「イメージの浮遊」や「二次元空間上のイリュージョンによる三次元空間」などを考えるために始めました。
最初、透明なキャンバスに絵を描くことを思いついたとき、とても大きなリスクを感じました。
まず、そのようなものがはたして絵画として捉えることができるのだろうか、絵画ではなくオブジェのようにしか見えないのではないかと危惧したのでした。
私の作品は絵画のことを考えるのがコンセプトですから、まず私の作品が見る人にとって絵画に見えるものでなければ意味がないからです。
しかし反対に考えれば、キャンバスの木枠などが露出して絵画の構造をあからさまに見せることになって、絵画のことを考察する上では興味深いものになるかもしれないと同時に思ってもいました。
最初は試作品を何点か作り、そこで多くのことを確認しました。
そうした作業の中で透明ビニールを張った木枠が絵画に見えるということに自信を深めてから本格的に透明ビニール絵画の制作を始めたというわけです。
Q-5
私はあなたの絵画を25年間見てきていて、あなたが常に抽象画家であり、具象域からは程遠いことを知っていますが、あなたの絵画と自然界との関係は何だと思われますか。
具象的なものからの完全な離脱によって、観る人に、自然界への連想のない自由な目を与える、ということがあなたの絵画の大きな目的なのでしょうか。
私は絵画を人工物だと考えています。
ですから安易に自然界のイメージの模倣や再現で安心感を保留することに警戒心を持っています。
抽象的思考は人間が持ちうる可能性として独自なものだと思います。
抽象的思考は、他の生物では持ち得ない、人間でしか味わえない思考形態かも知れません。
そのことをしっかりと認識して、その可能性を前向きに捉えたいと思っているのです。
「大自然の在り方」を原理のひな形のように見たり、あるいは「大自然の形態」との関係性の間でものごとを考えるという姿勢から実質的に自由になることが絵画にとっては大変重要なことなのだと思っています。
私にとって、そのための方法論は、目の前に「絵画」という興味のあるものが存在して、そしてその絵画を今いる自分の地点から全力を傾けて対峙してみる、ただそれだけのシンプルなもので充分だろうと確信しています。
絵画は人間や自然やその他いろいろなことを問題として含んでいますから、絵画のことを考えていると結果そういったことを間接的に考えていくことになるのだと思っているからです。
絵画を制作する前に、自然のことや哲学のことなどの問題が先にあるわけではありません。
ただ絵画が目の前にあるというこの事実だけから制作が始まればいいのです。
人間がやはり「自由な存在」というものを求めるように、絵画にとっても「自由に存在する」ということは、「物事のあり方」としては本質的に正しいことだと思います。
今日の視点から見ると、かつての宗教画のような、その宗教に奉仕するためだけに絵画が存在していればいいというわけにはいきません。
そうした考えを延長すれば、その作品を生み出した作者に奉仕するだけの絵画もやはり不充分なものになってくるでしょう。
絵画が絵画として「自律した存在」として在るということは、こうした絵画の在り方を認めた上で作者は作品と向き合うことが重要になってくるはずなのです。
絵画が何物にも奉仕しないということで言えば、「モチーフの意味性からも自由」な抽象絵画の形態は、そうした考え方に、より馴染む形態であることは確かです。
そういう思いから私はこれまで抽象表現で制作をしてきました。
しかし具象か抽象かという絵画形式は絵画の問題を考える上では、本質的にはそれほど大きな問題としては我々の前にはやって来ないだろうと最近の私は考えるようになってきました。
なぜなら、具象が持つ個々の意味性を抽象的に組み合わせるという方法論にも可能性があるということに最近改めて気づくようになってきたからです。
ここで結論めいたまとめをしてみると、やはり絵画は自然とは切り離された人工物の極みだと私は言い切ることができます。
ただし絵画がその表面でのふるまいにおいて、背後にいる人間が自然と繋がっていることがあったとしても、絵画にとってそれらのことは本質的には感知しない事柄であるはずだということを私たちは改めて確認しておかなくてはならないでしょう。
<文頭へ>
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