初期の頃はミニマリズムなコンセプトで平面的な作品を作っていましたが、1984年以来絵画(タブロー)を中心に創作活動をしています。
ミニマリズムが画面から描く対象としての色や形を後退させていた時点から私の絵画は始まりました。
その当時の私は、以前のようにもう一度色や形を復活させることは絵画にとって必ず豊かなことに繋がるだろうとの確信はありましたが、だからといって、それまでにあった古い形式の絵画の考え方を安易に復古させるだけでは何の問題の解決にもならないだろうということも分かっていました。
確かに当時のミニマリズム絵画は絵画の極北をイメージさせる力強いものを感じさせました。
極北まで行けるということはやはり大きな力でした。
しかし結果として、同時にある種の行き詰まり感を併せ持ったことも事実でした。
事実その後の美術界では、その反動としてニューペインティングのムーブメントが起きます。
それまでの鬱積していた裸の感情や情念などが直裁に吹き出してくるような作品が堰を切ったように時代を席巻することになりました。
そうした絵画をめぐる情況の中でも、私の絵画に対する姿勢の在り方がその当時の欧米の作家たちとは少し違っていたのではないかと今からなら冷静に俯瞰することができます。
私は日本人ですから直感的にミニマリズムな空間に豊かな美意識のようなものを感じていました。
欧米では必死になって、絵画における本質的に余剰なものを削げ落とした結果としての禁欲的なミニマリズムな絵画はあったのですが、私たち日本人はそのような方法論を用いなくても体内に美意識としてそういった空間性を既存の価値観として所持していたのでした。(絵画における余白の美とか禅寺の庭園などは日本文化の空間意識として専売特許のようなものですものですから。)
少なくても当時の私はそうしたことを肯定的に自覚していました。
ですからそのようなミニマリズムな場所を、何かを始める出発点として、そしてその延長線上にポスト・ミニマリズムな絵画を自然な形で制作できるのではないかと当時の私は漠然と考えていたのです。
ミニマリズムな絵画をどこかで絵画の最終的な帰結としてイメージしていた欧米の作家達とは、そこの立ち位置が随分と違っていたのだろうと今になるとよく分かります。
このweb上にある私の作品集は1984年制作のものから始まっています。
画面に”絵画としてしか表現し得ない色と形”だけで描いてみようと始めたシリーズです。
私はポスト・ミニマリズムをどこかで意識した絵画の制作をその時点から開始したのでした。
気がつけば、その場所を起点として今日まで私の絵画の制作は思いのほか長く続いてきました。
こうして続いてきた私の絵画制作の中で、最近はより一層、「タブロー」という形式が持つおもしろさに興味を持つことが増えてきたように思います。
「絵画」と「タブロー」という概念はなぜか私の中では少し違ったニュアンスのようなものがあって、「絵画」は主にその主題の内容の部分に重きを置くものという印象、「タブロー」はその絵画を支える形式(システム)により目が向いているというふうに漠然と感じています。
こうした違ったニュアンスのお互いが支え合って成り立つ構造のようなものを絵画の中に見出しながら、そのことを表現手段として描くということは、私の中で絵画という問題がより興味深い仕事になってきているのだと最近はよく自認させられます。
さてそこで、今のこの時代の中でなぜ「絵画」なのか、なぜ私は「絵画」を制作しているのか、という大きな問題が私の中にも社会の中にも深く潜在しているはずだと考えることが多くなってきました。
デジタルの技術が急速に発展してきた今の世の中で、アナログの権化のような絵画というものに大きな可能性があるとは思えないという多くの人の意見は今の社会の自然な流れとしてあるはずです。
確かにいつの時代でも新しい技術はそれだけで魅力的ですし可能性の塊のように見えてきますから、このような 時代に絵画を制作するとはどういったことになるのかという問題を作家は避けて通るわけにはいきません。
「絵画」も自身の中でさえそのことを意識して表現しなければならない時代になってしまいました。
では絵画だけの特質のようなものはどこにあるのでしょうか。
<絵画とは、何か平面的な物質の上(例えばキャンバスのようなもの)に筆のような媒介となる道具を使って、絵の具のような色を認識できる物質を置いていくことで成立させたものである>とするならば言葉通り以上の何もそれほどおもしろいものではありません。
このような物質でできている複合体が絵画と呼ばれ、見るものにそれ以外のモノやコトとして感じさせる装置としての醍醐味に溢れていたからこそ絵画は今日まで多くの人々を魅了させてきたのでしょう。
描かれたリンゴはほとんどの人はやはりリンゴだと思って見るし、それを絵の具でできた塊だと科学的分析の結果の満足感で終わらせません。
そこが絵画の基本的なおもしろさだろうと思います。
では最近のコンピュータ・グラフィックやバーチャルな空間においては同じことをもっと精緻な技術でやり遂げているではないかと反論されそうですが、まさしくそのとおりで、逆に精巧すぎて、その背後にあるシステムそのものを透明化する方向に進んでいます。
絵画はそのシステムが原初的なレベルで留まったままで誰が見ても物理的・物質的には明白なのに、それ以外のモノに(例えば絵の具の塊がリンゴに)転化していく様が、単純に目に見える構造だけにより明確でダイナミックに感じられるのではないかと思うのです。
その転化の飛翔感が大きいほど、絵画のすごみは増すことになるのではないでしょうか。
この先絵画は、その背後にあるそうした構造をあえて透明化しないことによって伝えられる”何か”で、より絵画の可能性を切り開いて行くことができるのではないかと予想しています。
さて、そういったことを考えながら私は日々絵画制作を続けているわけですが、その仕事の方向性がこれからどこに向かっていくのか、決して確信を持って把握しているわけではありません。
たぶん 制作の現場からこれからの新しい課題も発生してくるのではないかと考えているだけです。
そのあたりのスリリングさが制作を続けていくうえでの大きな動機になっていくことだろうということは確かなことだろうと思っています。
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