メタモルフィック・ペインティングについて
 
 メタモルフィック・ペインティングとは、ひとつの絵画の同じ構成部品を違う位置に組み合わせを変えることでもうひとつ別のイメージの絵画を成立させようとする試みです。その方法論の奥にどのような考え方があるのかをさらに詳しく述べてみたいと思います。

 このメタモルフィック・ペインティングのシリーズにおいてはジグソーパズルの形式の内で特に変様態機能だけが重要でした。ジグソーパズルが持つそれ以外の遊戯的な要素は全く必要ありませんでした。なぜならばこのシリーズは、これまでの絵画が当たり前のように持っていた「単一画面に単一のイメージ」という在り方をもう一度考え直してみようとするもので、決してトリッキーなパズル的面白さを追求しようとしたものではないからです。まずはこのことをはっきりと明言しておかなくてはなりません。

 さて絵画(タブロー)の歴史を見れば、宗教上の布教活動から派生した移動可能な祭壇画の形式は今日の絵画の在り方の起源ともいえるものを含んでいます。当時のイコン画に見られるような崇高なものへと昇華していくという宗教的世界観は、初動の芒洋としたイメージを少しずつ強固にしながら画面に昇華定着させていくという今日の一般的な絵画の制作プロセスの中に潜在的に引き継がれてきました。こうした絵画制作のプロセスのイメージは、時代が巡って芸術が宗教などからの自立をとげてきた経緯を経ても、なぜかこれまであまり意識されてこなかったことに少し不思議な感じを覚えます。芸術のための芸術もあたりまえのこととなった現代ですから、とりあえずは一度そうした方法論に私の検証が加えられたとしても今の時代は快くそれを許してくれることでしょう。

 私は絵画の自立ということを考えたとき、絵画が絵画以外の外側から移設されてきた要素で始動を始めることに疑問を感じてきました。絵画発生の動機がそれ自身の内側になくて、外側からやってきた要素で「展開する場」としてだけに利用されているということに納得ができませんでした。そうした私の考えからすると、絵画が「自立しているということ」と「要素を自前で用意すること」は自然と私の中で「抽象絵画であるということ」と直結しています。なぜなら私が考える抽象絵画は絵画の外側でのイメージや絵画以外の物語性に依存していないということが前提となっているからなのです。
 ではそうした外側の要素の助けを借りないで絵画自身の力でイメージや空間を力強く紡ぎ出していくためには自前の発動装置のようなものが絵画内部にどうしても必要となってきます。そしてその発動装置は多ければ多いほど絵画の力は充実したものになるはずなのです。そのためにも今回新たな自前の発動装置を用意する必要がありました。私が「同時進行する並行世界を設定してその相互作用の中でお互いの表現の場が発動してくる」という制作方法を考え出したのはこうした発想がきかけとなったのでした。

 具体的には、複数の絵画イメージを同時に成立させようとするとどうしてもその複数のイメージの間を往復しなくてはならなくなります。どちらかの一方の側の思惑だけで世界を固定することができなくなるからです。こちら側からの影響が相手に及び、そのことがまた相手からの影響を生み出すことになって、お互いの事情が相互にぶつかり合うことになります。そうして発生する相互干渉による絵画イメージの発生現場は、作者のコントロールを超えた制作行程を生み出し、その結果が作家個人の枠を超えた表現のダイナミックさを醸し出すこととなります。私はこうした状況を積極的に引き受けていくことが今回のシリーズの表現に直結することになっていくと考えました。

 こうしたシステムは、考えてみれば世の中すべてがそうした作動原理で動いているのだということに私は以前からどこかで気づいていたようです。宇宙にしても、自然現象にしても、私たちの存在や、心の中の動きにしても、すべてが自分と他者、あるいは数多くの存在者のお互いの相互影響作用の結果、現象事象として我々の前にその様態を表しているだけだと見てしまっていたのです。

 さらにまた一般的な物事の在り方を見れば、多くの物事には唯一の在り方のみで集約されているわけではありません。ひとつの物事を別の視点から眺めてみればまた別の風景が広がるように、そこには必ず複数の意味合いが共生しています。そうして考えれば同じひとつの絵画が別の在り方を含んでいることに何ら不都合はないように思えますし、逆にそうした複数の在り方を持つ絵画の方が本来の物事の在り方により近いものであるかもしれないのです。

 最近の私はこうした原理を物事の本質の一片のように捉えています。こうした原理を絵画という人間が考えだした表現現場に投入してみると、これまでの絵画の枠組みとは違う私なりの新しい形式が自然と浮かび上がって見えてきました。その結果がメタモルフィック・ペインティングとなったわけです。変様態機能を持つ絵画はこうして明確に私の中で正当性を獲得しました。

 作家にとって作品制作とは新たに生み出されようとするイメージの発生現場に立ち会うということでもあります。それは作者にとってこの上もない喜びですが、この喜びを見る側の人々とも共有することができれば、私のアートは基本的にもっとダイナミックなものになってくれるはずです。そのためには絵画に宿命づけられている「絵画は作者の表現行為の結果痕跡物」という捉え方に風穴を空けなければなりませんでした。しかし現実には固定された画面があってその表面に表現行為を展開する限り、作者以外の者の前にはその表現の痕跡結果を見る以外の形態はこれまであまり提示されてきませんでした。私はその固定されたように見える痕跡画面を物理的にその呪縛から解き放すことで、「絵画は結果痕跡物」という形態から少しは自由になれるかもしれないと考えたのです。絵画にとっては絶対的条件である平面性を維持しながらも、パズルが持つ可変システムを利用することで結果痕跡表現のみに依存しない表現形式が生み出せるのではないか、その可能性を探ったのでした。ひとつに定着したように見えるイメージ画面が、さらにもうひとつ別のイメージを孕んでいて、その上で同一構成ピースを組み替えれば別イメージに変貌できるとしたら、そこには作者以外の者の前にも新たなイメージ発生の現場が出現して、そうした現場に立ち会ってもらえるという機会が発生します。これまで作者と鑑賞者との間にあった感受の時間差のズレが解消されて、イメージ発生の場として現在進行形の臨場感を共有してもらえることになりました。表現行為の結果痕跡物という絵画のこれまでの限定された在り方が少しは改善されたかもしれません。

 さらに私の中で以前より懸案の絵画上のひとつの問題がありました。それは絵画のエッジの問題です。今回採用したジグソーパズルの形式は、組み合わせた後に出現する画面のエッジにさらに他のピースが連結できるかも知れないことを示唆するような形態線が出現します。それは連続する組み合わせ構造が作り出す有機的な延長感です。そのことが絵画として画面のより増大する視覚的拡張感を獲得することになりました。さらにピースの組み合わせによってより自由な形態の絵画が可能となりましたし、さらにいえばこの絵画には現状ある絵画形態が他の絵画に変貌するかもしれないというもうひとつの拡張感もあります。絵画はこれまで絵画を囲む額縁が、その後額縁から自由になってもその断ち切られた作品周辺のエッジが絵画構造に制約を与えてきました。これまでの絵画の視覚的拡張感は絵画内部のイメージ強化などで(例えば絵画的遠近法などで)強引にでも補強される必要がありました。こうした事に不自由さを感じた作家たちはシェイプド・キャンバス(変形キャンバス)や絵画をオブジェ化する方法等でこうした閉塞感を打破しようとしてきました。私の今回のメタモルフィック・ペインティングはこれらの試みに新たに加わる有効な方法論であると考えています。

 こうして出現したメタモルフィック・ペインティングですが、そこにはやはり「絵画」と「絵画以外の物」とを識別する境界線のようなものはたえず保持されているわけで、なぜならば私は絵画にこだわり絵画とは何かを考えて日々の制作をしているのですから当然なことなのです。私が採用した変様態機能が、その自由度ゆえそのピースを他の人が自由に並べ替えて楽しむことは物理的には可能だとしても、それが作者である「私の考える絵画」の範疇なのかと問われれば否というしかありません。なぜならここで私が発生させようとしているのは「私が考える絵画」なのであって、このことは作者の作品に対する責任に属する問題であるからです。私は何も物理的自由度だけを獲得することを最終目的としてこうした形式を採用したわけではないのですから。

 さて絵画を含め、芸術と呼ばれるものは基本的には自由を目指すものでなければなりません。世の中には結果的には不自由になるもので溢れるのが一般的だとしたら、芸術はやはりそれとは一線を画すものでなくては意味がありません。私の絵画もそうした考え方を踏襲するものです。ですからこれまでの絵画の制度の中にそうした不自由なものを発見したとしたら、そこから脱して、より自由度のある可能性を目指さなければ私が絵画を制作する意味がありません。

 難しい話は抜きにして、メタモルフィック・ペインティングを見る上で、その絵画が別イメージを内包していて、実際見ている絵画が、同じ人格が別人格に変身するように、あるいは同じものの中に違うものを発見するという驚きに似たものを私の絵画の中に見出していただけるとしたら、単純に楽しんでもらえるのでないのでしょうか。ひとつの作品にはひとつの意味や主題に限定されているという唯一性に対する思い込みに対しての解放です。見る側の能力によって場合によれば作者の意図を超えた意味の発見がある場合があったとしても、あるいは作品自らがそのことを意識したシステムを持っていたとしても、私の絵画はその豊かさを阻害することにはならないことでしょう。

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